冷凍保存が苦手

徒然なるままに

100人も居ない要らない

友人をカテゴリ分けしたい。

 

例えば街を家族と歩いているとき、前から学生の時に知り合った友人と歩いていたとする。その友人とは卒業以来会っていなかったら「学生時代の友人」と家族に紹介するだろう。しかし卒業後も頻繁に会ってたり連絡を取り合ってたりする友人を「学生時代の友人」で済ませたくはない。長い時間苦楽を共にし、その後も交流がある人はほんの一握りである。(人によりますが…)この尊い関係に特別な名前を付けたくなってしまった。

 

考えた結果「学生時代からの友人」という言葉に辿り着いた。「からの」があるとないとじゃ親密度の深みが違う。日本語は深い。「からの」の表現には無限大の可能性があるのではないか?高校の友人。高校からの友人。うん。今でも関係が続いているのは後者だ。

 

冒頭に述べた「カテゴリ分け」という表現はやや過剰で語弊がある。しかし、卒業後の交流があったかないかでは相手との親密度が変化するのは事実である。卒業後、一人として同じ人生のレールを歩くわけではない。それぞれに人生がある中私のことを思い出してくれてありがとう。コロナ禍になりなかなか会えなくなった今、「からの友人」が「からの友人」で居てくれることに改めて感謝したい。

 

タイムカプセル

ふと、新社会人のとき少しブログを書いていたことを思い出してなんとかログインしてみた。

 

 

…2018年とな……

 

 

何もかも違う世界だし私自身の生活もまるで違くて、遠い昔のことの様に感じてしまう…

 

文章に勢いがあって自分ながらエネルギッシュさを感じる。けど根底にある感情とか思いとか一緒の部分もあって、これが変わらない芯なのかと思ったり。

 

懐かしくて面白おかしくて思わずコピペして友人にLINEした。話の流れで冷凍保存(ブログのタイトル?の言葉)の話になった。

 

未だに冷凍保存はとても苦手。こちらも変わらないことの一つに堂々認定。

 

 

(またおいおい空いた期間のことも書けたらいいな)

 

 

なんだかんだでどんな京都も最高の話


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京都(画像投稿してみたかった)

 

数年ぶりに京都へ行った。

はじめての一人旅(かも)

 

卒業して引っ越して東京を離れてからほとんどを一人行動して過ごしている。(ほとんどと書いたのは月一で祖母宅へお邪魔しているから。ばあちゃんじいちゃん好き)

最初は寂しかったが、中学生の頃から一人でヴィジュアル系のライヴへ行ったりアニメイトへ行ったりしてたではないか!(友達が居なかった)とふと思い出してからなんでもどこでも一人行動が楽しくなった。

 

登山、動物園、水族館、野球観戦、牛丼屋、喫茶店、ラーメン屋などなど。

映画はしょっちゅう行っている。

 

一人行動のメリットとして気を使わないでいれることだと思う。

私は所謂「気にしい」らしく(友人談)メイクが崩れた顔を友達に晒して不快にさせてるなーとかトイレ近くて申し訳ないなーとか食べるスピード遅くて(もしくは早くて)気まずいなーとか寄り道したいけど予定にはないし、そこまで相手が興味なかったら申し訳ないな言い出しにくいなーとか思ってしまう。

その点、一人行動は一人なので何度でも予定変更できるし行きたいときにトイレに行けるし多少メイクが崩れても気にしないし(気にしろ)ご飯も自分のペースで食べれる。

 

気を使わないでいれる相手なんて家族含めても多分居ないし、仲良くても気にしてしまう人には気にしてしまうのだ。

これは相手との信頼の問題ではなく私の性格の問題なのだ。

 

もちろん、久しぶりに友達と遊ぶときは「気にしい」はあるものの、とても楽しい。顔を見て話すのが、本当に楽しい。楽しいを共有できて本当の本当に楽しい。

楽しすぎて、帰りたくなくなる。

それが悲しい。

閉館で流れる蛍の光の様な、さっき食べたアーモンドチョコが最後と知らず食べてしまいもう1つを無意識に探して覗き込む様な、そんな気分。

 

うーん悲しい。

 

楽しい時間は永遠ではないこと、分かっていても一生続けば良いのにと思ってしまう愚かさよ。

やまいも、強くあれ。

 

 

まとまりがなくなってしまったが

一人でも大勢でもプライベートを楽しめる人こそが人生を制すると思うのでこのままどちらの楽しみも味わいながら生きていたいな。

おわり

 

 

 

 

 

GAP

就職活動は自分のことが好きではない私にとって地獄そのものだった。

面接で知らない人と話すのは苦ではないが、自分のことを話せと言われると如何せん苦手。

 

やまいもって○○だよね~

○座で○型のあなたはこんな人です!

あー自分ってこんな人間なんだって探すヒントは巷に溢れている。

 

でも

イヤイヤイヤ、私はもっと○○だしそんなこと考えて生きてないよ(^-^;

っていう自分と他者のギャップが歯痒かった。

そこから、極端だけど私は元々空っぽの容器で、そこに他者が思い付いた印象だったり、星座や血液型、兄弟構成なんかを入れて私を作っているのではと考えるようになった。

 

長所は?短所は?今まで何を頑張ってきた?

自分で自分が分からなくなった。

自分ポートフォリオを作ってみても趣味嗜好が分かるだけで内面が読めない薄っぺらいなと感じてしまう。

 

 

いつか

私はこんな人間じゃい!

文句言うな一昨日来やがれバカヤロー!!

って堂々と言える日が来れば良いな。

 

学校じゃ詳しく教わんなかったそこんトコロ

服飾専門学校を卒業してから半年が過ぎた。

 

学生だったときは、個性!技法!個性!みたいなどちらかというと個人プレーが主でまあグループワークもあったけどそんなでもなかった(と今は思える)(けどもうやりたくない)

毎日好きな服を着て髪を染めて赤い口紅を付けて友達と支え合いながら日々を過ごした。

 

そして現在

 

某アパレル企業に就職し、今は販売員として働いている。

言わばアパレルの川下の立場になった。

するとどうだろうか、今まで習ってきた個性など通用せず万人受けする服を、外国から大量生産された縫製もまちまちなださい服を、おしゃれに興味のない、ただ安さに惹かれて買っていく人達に笑顔でヘコヘコ売る日々である。

 

…あれ…

 

社会人6か月目、学校では習わなかった

「アパレルは死んでいる」

という現実を学んでいる。

 

私が働いている店は大体どこのショッピングセンターにもあって、中学生~60代と幅広い客層が来店する。

 

定価1990円の服がたくさん並ぶ店内でそれを高いと言われる。

割り引かれて500円くらいになるものだけをまとめ買いしていく。

 

気に入って自分にも似合ってたら割引じゃなかろうと買うものではないのか。服って。

 

私自身、古着が好きでほとんどセレクトショップや古着屋さんへ行き買い物をする。

値段を見ないわけではないが、購入の一番の動機は「気に入ったから」である。

多少の無理をしてもこの服は私のために作られたんだ…(大真面目)と思って買ってしまう。

 

高度経済成長期の洋裁が盛んだった頃

竹の子族が原宿を占拠していた頃

ワンレンボディコンで扇子を仰いでいた頃

安室奈美恵になりたくて厚底を履いた頃

誰かを愛し街を愛し服を愛していた時代が確かにあったはずなんだ。

 

それが今やどうだ。

 

こぞってUNIQLOの様な価格を下げた売り方をして(UNIQLOのことは嫌いではないです決して)消費者を手懐けようものなら手懐けられているような状態(値下げがエスカレートする一方) 

 

お金より大事な、着るとテンションが上がるとかそんなこと、無いのかな。

 

純粋に誰しも持っているオタク気質(アイドル、本、ディズニーなどなど)でどこにお金を注ぎ込んでいるかは人それぞれであり、個人の自由。

それがたまたま私は服でたまたま服に興味のない層に触れて落ち込んでいるだけかもしれない。

 

しかしそれを踏まえてもなお

アパレルは死んでいて

私たちは予算に追われ、安値で買う客相手に泣きながら笑顔でショッパーを手渡すのである。